文和春秋

主に歴史や本についての徒然語り

「後西天皇」という諡号もどきについて

私は以前より諡号について興味を持っているのですが、残念ながら未だに思う様な本には巡り合えておりません。

その為、例えば天皇号にしても「『後』は漢風諡号にはNG」といった、その道の人なら常識だろうことすら知らず、「後柏原天皇はいいとして、柏原天皇とは誰?」「後奈良天皇がいるなら、奈良天皇はどこだ?」といった疑問を抱えていた事もあったものでした(なお、これらの正解は、桓武平城天皇がそれぞれ漢風諡号で後が付けられなかった為、それぞれの異称に後を付けたもの)。

ただ、そうやって見ていくとあらためて思う事の一つに、「後西天皇」という妙な諡号もどきはどうにか成らぬのか、というものがあります。

 

後西天皇諡号は、淳和天皇の異称である『西院帝』に後を付けたもの」

「大正期に一律に追号から院をとった際、『後西』になった」

とりあえず肝心要のこの二点についてはどうも異論を唱える向きは無い様なのですが、それならば「後西」なる諡号機械的処理による誤った改変で一種の改竄にも等しく、速やかに「後西院天皇」に直すべきではないのでしょうか。

 

南朝の件といい、光厳天皇らの扱いといい… 皇室に敬意があるのなら、誤りを放置して「無謬」を気取るより、正すべきは正したほうが良いと思うのですがね。

執権北条氏の一族相克癖

先に戦国大名北条氏の異様な結束ぶりについて述べてみましたが、思えば大元の執権北条氏が「一族相克」の見本の様な家である事を考え合わせると、「かつての名家の跡を襲う」事例自体はよくあれど、ここまで対照的な例はちょっと思いつかない様な気がします。

そして、執権北条氏のあの飽くなき闘争性は何に由来するのかと考えると…やはり始祖達の薫陶、というものなのでしょうか。

 

伊豆の弱小領主・北条の分家筋からのし上がり、頼朝の没後は孫・頼家や比企・畠山といった邪魔な有力者達を次々に始末して権勢を高めていった時政。

そんな父を同母姉・政子と組んで排斥し、これまた分家筋から本家の家督を奪取。和田氏ら有力者を潰し将軍を棚上げにし(ひょっとしたら弑逆も)、ついには主筋の上皇達をも島流しにして覇権を確立した江間義時。

まあこんな強烈な始祖たちを持った上、歴代得宗からして担ぐ将軍に対し「幼君擁立、大きくなったら京に返品」といった事をルーチンワークの様にやり続けているのを見ていれば… 「上を敬う」態の美徳が育たなくて当然なのやも知れませんが。

 

北条氏と後北条氏

事実上幕府を支配していた権門と、何かと風当たりの強い中で、結束せねば一族全体の存亡にも関わったであろうよそ者。

根本的にはそんな両者の立場の違いも大きいとは思うのですが、何とも不思議で興味深い「家風」の違いです。

軍人皇帝時代への興味とささやかな疑念

私は西洋史の方も好きなので、時折読んだり調べたりする事もありますが、やはり「ローマ帝国」という存在には、色々と心惹かれるものがあります。

そして、その中でもひと際気になる時期の一つが、混沌の極みとしか言いようもない軍人皇帝時代(235~284)になります。

 

僭帝は雲霞の如く現れ、ササン朝や蛮族が相次いで帝国に侵入、疫病や異教も跋扈し…などと「三世紀の危機」の名は伊達では無い混乱ぶりなのですが、それをある意味最も顕著に示すのが、この時期の皇帝の様子です。

元老院が正式に公認した皇帝だけで26帝(僭帝を入れれば、優に倍以上)

〇自然死出来た皇帝は最大でも3帝(病死2、殺害疑惑付1)、部下による殺害は少なくとも15帝(+3の可能性あり)

〇1年に最大で6帝が横死(部下が殺害4、戦死1、自殺1)

これらの数字だけでも、凄まじさは十分伝わるのではないかと。

 

正直こんな混沌をよくもまあ収拾できたものだ、そしてその間よくもまあローマ世界そのものが崩壊せずに済んだなあ、と呆れるやら感心するやらなのですが、それと共にいつも感じてしまうのは、ディオクレティアヌス帝の功績は正当に評価されているのだろうか、という思いです。

コンスタンティヌス帝辺りと比べると、どうも無意識のうちにでも「キリスト教を弾圧した異教徒の人非人だから」、と軽く見られている面があるのではないか。

ついそう穿ちたくなるのは私の僻目でしょうか…

 

戦国大名北条氏の強さ

もし私が「戦国時代で一番興味深い人物は?」と問われれば、候補はいろいろ浮かぶものの、とても即答は出来ないでしょう。

しかし「戦国時代で一番興味深い勢力は?」と問われれば、迷うことなく北条氏の名前を挙げることでしょう。

それくらい北条氏の「異様さ」には、興味を惹かれてなりません。

 

例えば「団結力」。

無論国人層まで含めれば、反覆常無い者達も少なくはありません。

しかしこと親族・譜代層に限れば、正直北条家中の団結力というのは、それこそマフィアもかくやというぐらいの常識外れの強さと言ってよいのではないかと。

素人調べではありますが、私が以前謀反に類する事例を漁ってみた際も、五代百年間で親族0・譜代2(未遂1含む)といった具合でしたし。

 

次に「安定感」。

団結力にも絡む話ですが、乱世で百年もの間お家騒動が皆無。

更に二代目以降は「関東制覇」という基本方針も微動だにせず。

これらは他国と比較すると、異様さが際立つかと。

 

そして「組織的」。

小田原城を頂点として、要所要所に親族と支城を配した領内ネットワーク。

整った文書行政に生前の隠居・後見を基本とする家督継承体制等々…

とにかく何につけても、北条家はシステマチックな気がするのですが、この面も他国に比べて異質ぶりが目立つ気がします。

 

また、こと合戦においては常勝とは遠く、特に関東の覇権を巡って争った上杉謙信や、様々な軋轢から戦う羽目になった武田信玄・勝頼相手には力負けしている感すらありますが、「骨」ともいうべき重要部分を固守しつつ、粘り強く機を待って反攻に転ずる粘性の強さには、まさに興味と関心の尽きぬものがあります…

方広寺鐘銘問題を巡る一考察

方広寺鐘銘問題。 そう言いますと、「家康が豊臣家を滅ぼすために難癖をつけた」といった「難癖」を未だ少なからず目にします。

しかし「避諱」という当時の常識からすれば、少なくとも知識階級でこの問題を家康の全くの言いがかりだ、と見なした方はいなかったのではないでしょうか。

どうもその辺り、豊臣家の最初に犯した非礼と、その後の家康の怒りに迎合した林羅山の呪詛云々という難癖とが、何故かごっちゃになって全てが難癖の様に論じられている気がしてなりません。

 

この問題について、作成者の清韓の弁明や学識者の意見等、学術的な解説については「名前の禁忌習俗」(講談社学術文庫)等に譲りますが、そもそも家康が非礼に不快を覚えたにせよ、その後の豊臣家に対する要求があれだけ手厳しいものになったのは、思うにこの銘文が慶長16年の二条城での会見後に作られたもの、ということが根本的な原因ではないのでしょうか。

 

要は家康を上位者と認めない挑発的な(あるいは政治的配慮皆無の無神経な)銘文に対し、家康が過剰なまでに反応したかに見えるのは、「待ちに待っていた豊臣家を滅ぼす機会がやってきた」という喜びの発露というよりも、「いつまで天下人の気分でいるのか」という苛立ちの発露ではないかと。

豊臣家に対するあの一連の要求は、「みじめに屈服して天下人としては政治的に死ぬか、幻想を抱いたまま抵抗して物理的に死ぬか、好きな方を選べ」という家康の「最後通告」ではなかったか。

個人的には、どうもそんな気がしてならないのですが。

鎌倉幕府の成立年代に関する私見

一時、教科書での記述の変化の事例として「鎌倉幕府の成立年が1185年になった」という話が随分と取り上げられた気がします。

今では一時の勢いが無くなった、などという話も聞くのですが、個人的には最初に見て以来、何故こんな「半端」な年代を… という思いが頭から消えた事はありません。

 

無論平氏という最大の敵対勢力を滅ぼし、義経を巡る騒動を契機に朝廷に守護・地頭の設置を公認させた、という事実は重要であり、頼朝政権にとって一つの大きな節目の年であったことについては間違いないでしょう。

ですが、頼朝が鎌倉に入り中央の統制を受けぬ独自の権力機構を立ち上げた「1180年」という実質的な始まりの年と、征夷大将軍という、以後長きに亘り武家の棟梁の象徴たる意味を持つ事になる職に補任され幕府の名実が揃った「1192年」という形式の完備した年という両者に比べると、あまりにも弱いのでは、と…

 

結局のところ、成立年代に細かな異説が絶えぬのは、本来は議論の叩き台となるべき「幕府の定義」に多分に曖昧な面があるため、各自が自分の「定義」を元に論じているが為、という気がしてなりません。

「幕府の定義を整理し、鎌倉幕府の成立年を見直した。ではそれに合わせ室町・江戸幕府の成立年も見直そう」といった話は聞いたことがないのが、その証左の一つの様な気も。

 

なお、私個人の見解で言えば、実質重視の見地から「1180年」が一番妥当だとは思います。

「鹿ケ谷の陰謀」考

平氏政権の時代に、後白河院とその近臣達が平家打倒を謀議するも密告によって露見し、関係者多数が処分された「鹿ケ谷の陰謀」と呼ばれる事件があります。
この事件について、以前は「無謀で杜撰な計画がばれたもの」程度の認識で、特に深く考えてみる事もなかったのですが、あらためて「平家物語」の該当部分を読んだり当時の状況を考えてみると、さて、これは「陰謀」ではなく「因縁」の類ではなかろうか、という思いの方が強くなってきました。

まず「陰謀」発覚のタイミングが、気の進まぬながらやる羽目になってしまった比叡山攻撃の直前という、あまりにも平氏側にとって都合の良い時期である事もそうですが、首謀者とされる藤原成親や西光があまりに簡単に捕えられている事なども考え合わせると、正直、信憑性は「吾妻鏡」での比企能員の乱の記述並みに胡散臭いとしか。 
そもそも有名な「瓶子が倒れた」発言からの展開自体が、謀議というよりは「座興としての平家打倒ごっこ」とでも言った方がしっくりする気がしますし。

ただ、これが受益者たる清盛が主導したものかと言えば… 彼の西光ら「関係者」に対する乱暴な処分を見るにつけても、演技でというよりは、信用していた者達に裏切られた事に対する激怒、という色を感じる点に違和感が拭えぬ気もします。 


そんな感じでつらつらと考えていくと、明証は無論無いものの、ふと思い浮かんだのは… この「酔っぱらいの座興」を「陰謀」に「昇華」させた仕掛け人は平時忠で、事件の真の標的も平重盛だったのではなかろうか、という夢想です。

 

平時忠という人物は、高倉天皇擁立運動や義経への急接近に見られるように、機を見るに敏で、思慮分別は浅いが行動力は抜群、と言ってよい方だけに、藤原成親と縁戚関係にある重盛の地位に痛撃を加え、己が姉の子宗盛後継への流れを作らんが為にこの事件を巻き起こした… そんな可能性も無いでもないのでは、と。