文和春秋

主に歴史や本についての徒然語り

戦国七雄考 ~何故宋は雄ではないのか~

国史において、「春秋五覇」「戦国七雄」「五胡十六国」といった具合に数字を絡めた歴史用語はしばしば出てきますが、その際ふと思うことの一つに「これらは何故この数字なのか?」という事があります。

大体8人ぐらいは紹介される五覇や、少なくとも20国以上、細かく数えれば八胡三十はいけそうな五胡十六国などは言わずもがなだと思うので、今回は七雄についての不信点を述べてみようと思います。

ようは、何故商の系譜を引き継いだ中堅国家の雄・宋は、雄に数えられないのだろうか、と…

 

かの国は、覇者にも数えられる襄公をはじめ、春秋時代全般でも諸国群の中では常に存在感がありましたし、戦国期も時に合従に参加して秦を攻めたり、後には王号を称し30年以上それを維持している事から考えても、七雄以外の諸国では一つ抜けた国力と存在感を保っていたのは間違いないかと思います。

もし仮に「雄というからには天下を左右するくらいの力が…」といった理由ならば、基本常に弱かった韓や、一度の狂い咲きを除けばこれまた基本弱国だった燕も「雄」から除いたって良いだろうに、 何故かの国々は「雄」で宋は違うのか?

正直、明確な理由があるのならば是非知りたいところです。

 

始皇帝は有力な敵国を次々滅ぼし、天下を統一した(すなわち、その前に滅んだ国は有力ではない)。

そんな本末転倒な理由で無ければ良いのですが、さて…

司馬遷と裴松之

先に司馬遷への恨み言を述べましたが、そんな折にいつもふと思い浮かべる歴史家に、「三国志」に注を付けた裴松之という方がいます。

 

この方はこの方で、注記を見る限り几帳面でガチガチの儒者気質といった、かなりアクの強そうな方。

主君を変えて重用されたりといった自己基準で好ましくないと見なした人物には、注記でいちいちその行動にケチを付けたり大げさに非難したり、時には列伝の配列にまで文句を付けたりする上、引用史料にしても内容をでたらめと断じたり、筆が進んでか著者の人格攻撃にまで及ぶことすらあったりもします。

ただその気質によるのか、「でたらめな作り事で、つじつまが合わぬこと甚だしい」「学問に熟達した人なら問題としない書物である」などと評した史料でさえも、全て注記で引用した上で罵詈雑言を浴びせている点には… こちらにも解釈や考察の余地をきちんと残してくれているという点で、心からの感謝を捧げたいとも思います。

 

項羽を「本紀」に入れたり、例え孔子の言と伝えられている事であろうと、自分が違うと思えば異を唱える。

そんな司馬遷の自由でありながら芯の通った歴史観は十分敬意に値するのですが… 裴松之の様に、とは言わずとも、もう少し幅広く史料や事績を採録してくれていたらなあ、という思いも、消えることはないでしょう…

 

司馬遷への恨み言

司馬遷と言えば、「史記」を著し、後の正史の基本となる紀伝体を確立した偉大な歴史家として、その業績を否定する方はいないかと思います。

ただ、個人的には… 大いなる敬意を持つと共に、それと同量くらいの負の感情があったりもします。

それはより端的に言えば、「省略するな!」という心からの恨み言です。

 

以前、私は酔狂で春秋~戦国期の諸国についてまとめた事があり、「春秋左氏伝」と比較しながら「史記」(特にそのうち「世家」)を利用したことがあるのですが、春秋の斉・晋・楚や戦国七雄らの列強国に比べ、司馬遷の数多の小国に対する記述の適当で興味なさげな事と言ったら!

歴代君主の名前だけでも羅列してくれるのはまだましな部類で、少なからぬ国が「弱小国で、詳述するにたる事績がない」「小国で列叙するに足りず、ここでは論及しない」「滅ぼされたものは枚挙に暇がないので、本書の伝記には著録しない」…といった省略という洗礼を浴びておりますので。

 

中国古代史家の宮崎市定氏が「司馬遷は政治より軍事を、小国より大国の事績を、地味より面白い話を好んだ」といった趣旨の事をどこかで書かれていたかと思いますが、まさにそういった彼の嗜好の直撃を、何度となく喰らってしまった衝撃は、今も遺恨と共に燻り続けております…

歴代君主の「秦の天下統一」への貢献度

先に始皇帝の覇業について私見を述べてみましたが、より具体的に、歴代君主の「統一」への貢献度を数字で表してみるとどうなるか?

以前戯れに考えてみたものなのですが、意見の参考として、少し述べてみようかと思います。

なお、貢献度の高い順に寸評と共に並べていますが、今回は「統一への貢献」が主題ですので、その基礎条件たる「商鞅の変法」以降の君主に限定しています。

また、仮にトータルで100になるように割り振ってはいますが、個々の数字については、5刻みで感覚的にやったものなので、精査すれば変動の余地は多々あるかと思います。

 

〇孝公(45)

商鞅を登用して変法を断行し、統一への基礎条件ともいうべき「土台」を確立した功は間違いなく一等。また、どんな軋轢が起ころうとも死ぬまでぶれなかった点も見事。

始皇帝(25)

最強国家・秦を受け継いだとは言え、様々なしがらみを断ち、断固たる意志で実際に統一を果たした功績は大。

〇昭襄王(20)

白起を起用し老大国・楚と新興軍事国家・趙に痛撃を与え、事実上七雄の勝負付けを終えた点を評価。

〇恵文王(5)

商鞅を嫌い一族共々皆殺しにしても、変法そのものには手を付けなかった。その割切りは非凡。

〇武王ら他の君主達(5)

それぞれ領土を広げ、秦の優勢を保持し続けた。

 

ちなみに、ここでは君主限定の評価としたため、臣下の功はその君主に帰属させていますが、もし個人名で述べれば… 

商鞅・孝公・始皇帝・白起。この四者の功が抜きんでていると思っております。

始皇帝への評価に対し感じる、違和感について

世間的に高く評価されているが、自分では今一つピンと来ない。

そんな事は誰しもあることだと思うのですが、私にとってその代表例はと言えば、やはり始皇帝になるかと思います。

 

戦国七雄の争いを征し、初めて天下を統一した。

皇帝制・郡県制など、二千年に及ぶ中華帝国の原型を作った。

貨幣や計量単位を統一し、万里の長城ら歴史に残る大事業を行った、等々。

無論これらは見事な業績ですし、それを否定する気も無いのですが… どうも誤解に基づいたり過大だったりする部分も少なくない様な気がしてなりません。

 

例えば天下統一についてですが、「他の六国を次々と滅ぼして…」などというと、彼がまるで熾烈な争覇戦を勝ち抜いて成し遂げた様な印象を受けると思うのですが、実際の所、彼が即位した時点で天下の半ば程は秦の領土、争覇という意味でも曽祖父・昭襄王の時代に、勝負付けはほぼ終わっていた、といった面が、軽視されてはいまいか。

彼が始めた郡県制らの諸制度についても、彼がグランドデザインを引いたのは間違いないとしても、それはあまりに拙速・原理主義的で実用に耐える強度が欠けており、定着の功は諸制度を現実路線に落とし込みつつ、時間を掛けて整備し続けた蕭何らの漢帝国の人々に帰する面が多いのでは、等々。

そしてなにより、彼の死後に秦帝国があまりにあっけなく瓦解した事にしても、「趙高の専横云々」で免罪されがちですが、通算25年の在位と天下統一から11年の時間がありながら、死後3年しか持たない体制しか作れなかった事には、当然彼の責任は免れないのでは、とも。

少なくとも天下巡行より先に、為すべき事は幾らでもあったのでは無いでしょうかね…

 

 

「義経の悲劇」の原因  ~彼の常識と意識について~

源義経というと、一般的には「大功を立てながら兄に疎まれ、悲劇的な最期を遂げた英雄」といった印象を持たれている様に思うのですが、私としてはその印象、ことに「悲劇的」の部分が引っかかってなりません。

それこそ鎌倉で「武士の自立」という命題を果たすべく奮闘しているのに、御家人と揉めるは勝手に官位を貰うはと、武功と共に無思慮な言動を繰り返す弟に振り回され続けた兄の方が、ある意味余程悲劇的だとすら。

(なおこの辺り「判官贔屓」の方には、小説ですが「義経」(文春文庫・司馬遼太郎)あたりをご一読されると、違う視点が見られて良いかも知れません)

 

結局の所、いわゆる「義経の悲劇」の大方は、その成長した環境によるものなのか、彼の常識知らずが原因・遠因になっているのではないでしょうか。

例えばこの時代、生母の身分差というものは大きく、義経の生まれでは弟とはいえども、家臣に近い立ち位置になってもおかしくない立場かと思うのですが、「鎌倉殿の弟ぞ」と胸を張る彼に、そういう意識があった様には見えません。

その辺り、同じ様に母の身分が低い兄・範頼の頼朝に対する言動は、まさに義経と対照的なのですが、これは両者の気質の違いもさることながら、受けた教育の差ではないかと。

 

また彼は、頼朝や鎌倉政権の奥州藤原氏に対する警戒や潜在的な敵意に関しても、正直自覚していたようには思えません。

鎌倉武士達は義経から一歩引いていた方も少なくないように思うのですが、そこには彼を「秀衡の息のかかったもの」と警戒した向きもあったのでは無いでしょうか。

彼の郎党である佐藤継信・忠信兄弟にしても、それこそ穿った目で見れば、「秀衡の付けた軍監」と見られてもおかしくない身分の様な気も…

 

源義経の軍事的才能についての一考察

源義経という人物はどう評価すれば良いのか?

昔は「政治的センスは皆無の戦の天才」という評価で良いだろう、と特に悩むことも無かったのですが、数年前に「平家物語」(講談社学術文庫)を読んだのを切っ掛けに、軍事面についてもあらためて考えるようになりました。

ようは彼の成功というのは、概して結果オーライの類ではないのかと。

 

例えば屋島の平家を急襲して海に追いやった場面にしても、彼の天才ぶりを活写する態の「平家物語からして、決定的な戦果となった内裏焼き討ちが義経の指示ではなく、参加していた古強者の後藤実基の独自判断とされている辺り、義経の大将としての力量に疑義を抱く一件ですし、よくよく考えてみれば義経の見事な奇襲として語られる強風を押しての渡海強行からして、「通常三日掛かる所を六時間で行った」というのは、海の怖さを知らない素人の無茶がたまたまうまくいっただけのことでは無いか,等々…

 

有名な一の谷の戦いでの鵯越の急襲からして、実際にあったかどうかという話から実は多田行綱の活躍だ、などと諸説あるようですし、さて、どう判断してよいものか。

「幸運児義経」。個人的にはそれが現段階での彼に対する暫定的な評価です。