文和春秋

主に歴史や本についての徒然語り

方広寺鐘銘問題を巡る一考察

方広寺鐘銘問題。 そう言いますと、「家康が豊臣家を滅ぼすために難癖をつけた」といった「難癖」を未だ少なからず目にします。

しかし「避諱」という当時の常識からすれば、少なくとも知識階級でこの問題を家康の全くの言いがかりだ、と見なした方はいなかったのではないでしょうか。

どうもその辺り、豊臣家の最初に犯した非礼と、その後の家康の怒りに迎合した林羅山の呪詛云々という難癖とが、何故かごっちゃになって全てが難癖の様に論じられている気がしてなりません。

 

この問題について、作成者の清韓の弁明や学識者の意見等、学術的な解説については「名前の禁忌習俗」(講談社学術文庫)等に譲りますが、そもそも家康が非礼に不快を覚えたにせよ、その後の豊臣家に対する要求があれだけ手厳しいものになったのは、思うにこの銘文が慶長16年の二条城での会見後に作られたもの、ということが根本的な原因ではないのでしょうか。

 

要は家康を上位者と認めない挑発的な(あるいは政治的配慮皆無の無神経な)銘文に対し、家康が過剰なまでに反応したかに見えるのは、「待ちに待っていた豊臣家を滅ぼす機会がやってきた」という喜びの発露というよりも、「いつまで天下人の気分でいるのか」という苛立ちの発露ではないかと。

豊臣家に対するあの一連の要求は、「みじめに屈服して天下人としては政治的に死ぬか、幻想を抱いたまま抵抗して物理的に死ぬか、好きな方を選べ」という家康の「最後通告」ではなかったか。

個人的には、どうもそんな気がしてならないのですが。