文和春秋

主に歴史や本についての徒然語り

「日本一の大天狗」考

「日本一の大天狗」。

これは源頼朝後白河法皇評として有名であり、法皇の曲者ぶりを示すものとしても良く紹介される言葉かと思います。

しかしよくよく考えればこの言葉、どういう意図が込められているのでしょうか?

 

そもそも「曲者」に対する言葉としては、「古狸」「狐狸」などと呼ぶ事例はよく見ますが、「天狗」呼ばわりは聞いたことがありません。

というより、うぬぼれ屋に対する罵声以外での「天狗」呼ばわりというのが正直思いつきませんし、ここでの天狗は引用されている「玉葉」の文脈からして、その意味とは到底思えません。

そう考えていくと… この「大天狗」呼ばわりは、他では用例の見られない「曲者」という意図で捉えるよりも、もっと虚心に、世の中を乱す怪異としての天狗を意識しての言葉、として捉える方が自然ではなかろうかと思います。

要は…

「貴方の無定見と権力欲こそが、世の乱れが一向に収まらない原因でしょう。それを自覚していますか? えっ、世を乱す天狗の大親分よ!」

といった感じの意味を込めた悪罵ではなかろうかと。

 

思えば頼朝と言えば、自分の命に反し自由任官した御家人達へ、書面で雨あられと痛烈な悪口雑言を浴びせた事でも名高い方です(興味のある方は「吾妻鏡」元暦二年四月十五日の状を参照下さい)。

「ネズミ眼」「ガラガラ声」「ふわふわ顔」等の身体的特徴の揶揄から、「イタチに劣る」「大ぼらふき」「(俺に首を刎ねられないよう)首に金巻いとけや」「この道草食いが」「駄馬でも育ててろ」といった感情任せの悪口まで、それはもう凄まじく…

これらの様な力の限りの罵詈雑言を、相手が相手だけに極力抑えてオブラートに包んだのが件の「大天狗」呼ばわり。

そう考えるのも、個人的には左程無理な解釈ではあるまいと思っているのですが… さて。

後白河法皇の評価

後白河法皇とはどのように評すべき人物か?

一般的には「老獪でしぶとい政治家」「常に武家の勢力均衡を図り策動する謀略家」といった一筋縄ではいかない曲者のイメージが強い気がするのですが、個人的にはどうも関連する知識が増えていく程、過大に見られている部分が多いのでは、という気持ちが強くなっております。

 

まず老獪というには… 策謀が失敗した時の対応策など用意せず、しばしば幽閉されたり不利な条件を呑まされたりしている事から見れば、その判断の甘さと学習能力には大きな疑問符がつくかと思います。

たびたび政治的な力を失ってもその都度復活したしぶとさについても、法皇個人の力量というよりは、「院無しには政治が円滑に進まない」という当時の制度的慣例による部分が大きい気がしてなりません。

何より謀略家といっても… だまくらかせたのは義仲や義経の様な政治的など素人ばかりで、頼朝相手では時間稼ぎと嫌がらせぐらいしか出来ていない様な気が。

そもそも「奥州征伐」や「将軍宣下」など、相手に言い値で売れる好材料がある際にもまともな取引をせず、結果として後に安めを引く羽目になっている所などを見るにつけても… 優秀というよりは信西が評した様に「暗主」の方が的確な気がしてなりません。

 

但し… 平治の乱や平家都落ちの際などの危機的状況で法皇が時折見せた「危険を察知する野生のカン」と「素早く安全圏へ逃れる行動力」については間違いなく非凡であり… そういう意味では総合的な評価に困る方ではあります。

やはり「日本一の大天狗」辺りが、適当なのでしょうかね。

北条時政は「慧眼」なりや

「平家全盛の世に頼朝を婿に迎えた慧眼」「政治的天才」

北条時政に対したまに見るそんな激賞に、昔は大げさとは思いつつも違和感という程のものは覚えなかったのですが、奥富敬之氏の幕府成立以前の北条家についての検証などを見るにつき、だんだんと疑問を持つ様になってきました。

果たして、あの選択は「慧眼」によるものだったのだろうかと。

 

確かにあの当時に頼朝を婿にするという選択は、平家との軋轢などの問題を生む、一種の冒険ではあったでしょう。

しかし、関東どころか伊豆を代表する勢力ですらない北条氏のしかも傍流、という当時の時政の立場からすれば、こういう情勢でも無ければまず可能性すら無い「奇貨」であった事もまた、間違い無かったでしょう。

当時の頼朝は、例えるならば「うまくすれば破格の配当も見込めるが、裏社会絡みの為に下手を打てば全財産どころか命すら危うい、夢と危険溢れる債権」とでもいうべきものであり、伊東祐親が買えなかったのに北条時政が買えたのは、両者の能力もさることながらそれ以上に、所有する財産と責任を負う部下の数の違い、というのも大きかったのではないかと。

 

いざとなれば「婿殿の寝首を掻いての清算」という非常手段も視野には入れていたでしょうし、当時の失うものとてたいしてない時政の立場ならば、博打としての分はそう悪い案件では無かったのでは、とそんな気がしてならぬ今日この頃です…

 

左遷・棚上げの官職としての太政大臣

律令政治で最高の官職と言えば、それは制度上は太政大臣で間違いないでしょう。

しかしこちらも、摂政・関白と違い律令上の規定があるとは言え、やはり高すぎる位のため原則として陣定には参加出来ず、職分も明確には規定されていないという意味でも、摂関と同様に危険な面を持つ官職だと言えます。

そして、摂政・関白が藤原北家(後には更にそのうちの御堂流のみ)という特定の家柄の者しかなれないのに対し、そういった慣例の無いこの官職は、いつしか位人臣を極めた人物の上りのポストや最高峰の追贈官職といった表の意味と共に、事実上の左遷・棚上げポストとしての裏の意味も確立していった様に思います。

 

藤原良房以降は長らく摂関経験者の上りポストだったこの官は、正暦2(991)年の藤原為光の就任を転機に、政界の長老的存在が任じられる事例もちらほら見られる様になりました。

しかし、明確に「左遷」の意図を含む様になったのは、おそらく承暦4(1080)年に内大臣藤原信長が、師実と摂関の座を争い敗れた後はサボタージュを決め込んで長らく出仕しなかったにも関わらず、「昇進」したのが先駆では無いかと。

正治元(1199)年に藤原頼実が右大臣から昇進させられて憤激したというのも、本人は元より周囲もそういう認識を無理からぬこと、と見たからだろうと思いますし。

 

本来は名誉な事たる親王宣下も事実上の左遷に使われた事例がありますし、この辺りの政治的駆け引きや裏の意味の醸成は、実に興味深いものです…

 

藤原道長の行動から推察する摂政・関白の地位と権限

藤原道長摂関政治の全盛期を築き上げたのは有名ですが、その20余年の政権期の大半が右大臣・左大臣という立場で、摂政になったのは最後の1年余に過ぎないという事については、案外知られていない気がします。

以前、前から気になっていたこの「不思議な事実」について調べてみた事があったのですが… 結論から言えば、「摂政・関白の地位自体に実権は無い」というのが理由の様です。

 

摂政天皇代理、関白は天皇代行。共に臣下を超越した最高峰の地位であることは確かに間違いありません。

しかし同時に、共に令外官という律令に規定されていない官職であるため、「万機を総覧する」といった漠然とした職権の上、高過ぎる地位の為か実務を討議する陣定にも原則参加出来ないという、小さからぬ弱点を抱えているのもまた事実。

要は… 実力者がその地位に就けば「万機を総覧する」職権を理由にあらゆる事に公然と介入出来るのに対し、力の不十分な者が就くと「貴方の職務は『万機を総覧する』事ですから、このような瑣事に口を出されますな」と棚上げされかねない、ある種危険な官職とも言えるでしょう。

 

道長が摂関の座を固辞して左大臣固執し続けたのも、一条・三条天皇という完全にコントロール出来ない帝に対しては、名誉はあれど漠然とした権限の地位よりも、何より律令を盾に実務を牛耳れる地位を選んだが為であり、彼が後一条天皇即位と共に摂政になったのも、外祖父という絶対的な関係を確立した事でコントロール出来る確信を持てたが為だと思います。

小右記」に道長藤原実頼(「名ばかりの関白だ」と日記で自嘲した人物)の事例について問い合わせた話がある様に、まさに彼は摂関の地位と摂関政治について、歴代のどの摂関よりも深く理解の上で権力を固めた「摂関政治を極めた男」と呼べるのではないでしょうか。

平清盛の出世に対する一考察

平清盛白河院落胤」という話は昔からありますが、果たしてそれにどの程度の信憑性があるものなのか?

以前は異数の出世を遂げた清盛に対する、やっかみ交じりの雑説の類という認識で、正直論ずるに足りない話としか思っていなかったのですが… 「清盛以前」(平凡社)という本を読んで以来、案外真実ではなかろうか、と考えを改めました。

この本は、タイトル通り清盛以前の伊勢平氏の興隆について、その父・忠盛の活動を中心に様々な面から論じたものでして、清盛の出生については忠盛の家族に触れた一節でほんの3P程述べているだけなのですが、添付されている「平氏主要人物の位階昇進状況」という表が、何とも衝撃的なものでした。

 

清盛の昇進速度が父・忠盛より遥かに早いのは、平氏の家格上昇を考えればむしろ当然であり、何も不思議な事はありません。

ですが、自身の嫡子・重盛よりも早く、ましてや参考として附されている同時代の大・中納言の公卿クラスの子息と同等かそれ以上というのは… まさに著者の高橋昌明氏が述べられているように「家格がほぼ絶対的な意味を持っていた貴族社会で、これを合理的に説明する理屈は清盛落胤説以外にはちょっと見当たらない」としか。

 

院政期について見てみると、院自身のみならずその寵愛を受けた院近臣も、「夜の関白」の異名をとった藤原顕隆の様に、摂関家をも凌駕する実力者として権勢を振るう場面は度々あります。

ですが例え実力では相手を凌駕しようとも、その多くは権中納言、せいぜいが大納言どまりで、位階や官位でも相手を凌駕する… などという事例はありません。

そんな、専制君主化した院にすら意のままにならぬ、伝統に守られた官位・家格の強固な壁がいまだ存在していた状況。

その事を考慮すれば、清盛の、特に十代での位階の昇進ぶりの異常さは決して軽く考えられるものでは無く、私には白河院が彼を「落胤」と認識し、貴族社会もそれを暗黙の了解として受け入れていた証拠に思えてなりません。

 

また、もしこれが事実だとすれば、異母弟頼盛(忠盛の後妻・藤原宗子所生)が後々迄清盛に対抗とも言える微妙な姿勢を取り続けた事に対しても、「兄は院の落胤であり、我こそが伊勢平氏の真の嫡流」という意識があったのでは、という感じで理解がしやすくなるのですが… さて。

春秋時代の魅力

私は中国史については全般的に興味があるのですが、一番好きな時代はと言うと… やはり紀元前の春秋時代になるかと思います。

都市国家クラスの小国も含めれば優に数百の国が存在し、周王室をはじめあらゆる権威が揺らぎだし、道義は乱れ実力主義の風潮が次第に強まっていく… 混沌の時代。

ただ、逆に言えばその後の戦国時代とは違い、いまだ権威も道義も揺らぎはすれど地には墜ちず、実力主義の風はまだ強固な社会的な壁を吹き飛ばすには至っていない… そんな半端さがもたらすのか、何処か他には無い妙な雰囲気が漂うこの時代は、私にはたまらなく魅力的に感じられます。

 

「スッポン汁を巡る軋轢により国が滅んだ」

「羊肉のスープを巡るトラブルで戦に大敗」

「蛮族に攻められた際、兵士を集めようとしたら『鶴を使え』と拒否された」

「君主が領内視察に出かけた際、留守中に都が隣国に攻め落とされて人々が連行されており… 帰ってきたら無人だった」等々。

何れもこの春秋時代ならではの、どこかとぼけた出来事かと。

 

この時代は戦国時代ほど「判り易くない」為か、面白い割には今一つ人気が無い気もします(「春秋・戦国時代」と称する本の場合、感覚的に両時代の割合は良くても2:8くらいの気が)。

基本史料となる「春秋左氏伝」にしても、必ずしも読みやすいとは言えないでしょう。

しかし一度壁を乗り越えてしまえば、噛めば噛むほど味わい深くはまりかねない… そんな不思議な時代と言えるのではないかと思います。