「義経の悲劇」の原因 ~彼の常識と意識について~
源義経というと、一般的には「大功を立てながら兄に疎まれ、悲劇的な最期を遂げた英雄」といった印象を持たれている様に思うのですが、私としてはその印象、ことに「悲劇的」の部分が引っかかってなりません。
それこそ鎌倉で「武士の自立」という命題を果たすべく奮闘しているのに、御家人と揉めるは勝手に官位を貰うはと、武功と共に無思慮な言動を繰り返す弟に振り回され続けた兄の方が、ある意味余程悲劇的だとすら。
(なおこの辺り「判官贔屓」の方には、小説ですが「義経」(文春文庫・司馬遼太郎)あたりをご一読されると、違う視点が見られて良いかも知れません)
結局の所、いわゆる「義経の悲劇」の大方は、その成長した環境によるものなのか、彼の常識知らずが原因・遠因になっているのではないでしょうか。
例えばこの時代、生母の身分差というものは大きく、義経の生まれでは弟とはいえども、家臣に近い立ち位置になってもおかしくない立場かと思うのですが、「鎌倉殿の弟ぞ」と胸を張る彼に、そういう意識があった様には見えません。
その辺り、同じ様に母の身分が低い兄・範頼の頼朝に対する言動は、まさに義経と対照的なのですが、これは両者の気質の違いもさることながら、受けた教育の差ではないかと。
また彼は、頼朝や鎌倉政権の奥州藤原氏に対する警戒や潜在的な敵意に関しても、正直自覚していたようには思えません。
鎌倉武士達は義経から一歩引いていた方も少なくないように思うのですが、そこには彼を「秀衡の息のかかったもの」と警戒した向きもあったのでは無いでしょうか。
彼の郎党である佐藤継信・忠信兄弟にしても、それこそ穿った目で見れば、「秀衡の付けた軍監」と見られてもおかしくない身分の様な気も…