文和春秋

主に歴史や本についての徒然語り

源三位の末裔たち

治承4年、源三位は先述のように自害し、一族郎党も壊滅しました。

幸い、この時都に不在だったと思われる頼兼と、知行国の伊豆にいた広綱という二人の子は生き残ったのですが、頼兼はその子頼茂の代に政争絡みによってか滅ぼされ、広綱は頼朝の挙兵に加わり駿河守にまでなるも、後に謎の逐電・遁世を遂げてしまい… かくして源三位の直系は歴史の表舞台から消えました。

しかしながら「源三位の末裔」を称する者たちが後の世にも少なからず見受けられ… 江戸時代にも大河内・池田・太田など数家の大名家を出すに至っています。

 

本願寺の坊官・下間氏。

徳川の譜代・大河内氏。

太田道灌の活躍で名高い太田氏。

武田信玄の名臣・馬場信房が高名な馬場氏、等々。

これらのうち、広綱子孫の太田氏はともかく、他は「徳川が新田の子孫」級の信憑性のようですが、裏を返せばそれだけ「源三位」というのは先祖として誇るに足る存在だった、とも言えるのではないかと思います。

…まあ表面の行動を好意的に見れば、「平家の専横と不忠に怒り、老いの身をも顧みず決起。自らと一族郎党の血で新時代への道標を築いた」という、まさに「英雄的行動」以外の何物でもありませんので。

 

「埋木の花さく事もなかりしに 身のなる果ぞかなしかりける」

平家物語」の記す辞世の句が果たして本物かは存じませんが、如何にもらしい、実に印象深い辞世であると思います。

後代には見事花を咲かした、という事で、以って瞑すべしと思って頂きたい所なのですが、さて。