治承4年、源三位は先述のように自害し、一族郎党も壊滅しました。 幸い、この時都に不在だったと思われる頼兼と、知行国の伊豆にいた広綱という二人の子は生き残ったのですが、頼兼はその子頼茂の代に政争絡みによってか滅ぼされ、広綱は頼朝の挙兵に加わり…
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