文和春秋

主に歴史や本についての徒然語り

ローマ皇帝から考える大帝称号の「資格」と「価値」

西洋史を見ていると、時折「大帝」「大王」といった尊称で呼ばれる君主が出てきますが、その時にいつも思う事の一つに、あれはどういう基準で付けられているのか、という事があります。

この件について、少なくとも私の知っている範囲では解説している本等を見たことが無いので、東西分割以前のローマ皇帝での事例を元に、少し私見を述べてみようかと思います。

 

まず「偉大な功績のある君主に後世の歴史家が贈る称号」だと仮定してみると… 虚心に皇帝の業績のみを基準に考えた場合、

カエサル死後の内紛を制し、初期帝国の原型を作った初代アウグストゥス

混沌を極めた軍人皇帝時代を収拾し、後期帝国の原型を作ったディオクレティアヌス

この二人を外すことは考えられませんし、宿敵パルティア以下の数多の外敵を制し帝国の最大領域を築いたトラヤヌスも加えてよいかも知れません。

ですが、現実にはこの三帝が大帝と呼ばれる事は無く、代わりにその称号を帯びるのは、統治者としての業績では何枚も落ちると思われるコンスタンティヌス一世とテオドシウス一世のみです。

 

よって、この現実を基準にして考えてみると…

キリスト教文化圏においては、キリスト教徒のみが有資格者。

キリスト教への貢献は、他の事績の数十倍の価値がある。

といった感じであり、逆に言えばその称号の有無など異教徒からしてみれば別に大した問題ではない、と言えるのではないかと思います。

 

なお、今回の考察の直接のきっかけは、ある本で著者が「フリードリヒ大王が大王と呼ばれる理由が判らない」といった趣旨のぼやきをしているのを見た際、そんな「大」が大した称号だろうか、と思った事でした。

まあ「大」の価値はどうあれ、私としてはプロイセンを欧州の一強国から末席ながら列強の一翼にのし上がらせた彼の功績は、好き嫌いはともあれ十分「大王」の名に値するとは思うのですが。