文和春秋

主に歴史や本についての徒然語り

平清盛の出世に対する一考察

平清盛白河院落胤」という話は昔からありますが、果たしてそれにどの程度の信憑性があるものなのか?

以前は異数の出世を遂げた清盛に対する、やっかみ交じりの雑説の類という認識で、正直論ずるに足りない話としか思っていなかったのですが… 「清盛以前」(平凡社)という本を読んで以来、案外真実ではなかろうか、と考えを改めました。

この本は、タイトル通り清盛以前の伊勢平氏の興隆について、その父・忠盛の活動を中心に様々な面から論じたものでして、清盛の出生については忠盛の家族に触れた一節でほんの3P程述べているだけなのですが、添付されている「平氏主要人物の位階昇進状況」という表が、何とも衝撃的なものでした。

 

清盛の昇進速度が父・忠盛より遥かに早いのは、平氏の家格上昇を考えればむしろ当然であり、何も不思議な事はありません。

ですが、自身の嫡子・重盛よりも早く、ましてや参考として附されている同時代の大・中納言の公卿クラスの子息と同等かそれ以上というのは… まさに著者の高橋昌明氏が述べられているように「家格がほぼ絶対的な意味を持っていた貴族社会で、これを合理的に説明する理屈は清盛落胤説以外にはちょっと見当たらない」としか。

 

院政期について見てみると、院自身のみならずその寵愛を受けた院近臣も、「夜の関白」の異名をとった藤原顕隆の様に、摂関家をも凌駕する実力者として権勢を振るう場面は度々あります。

ですが例え実力では相手を凌駕しようとも、その多くは権中納言、せいぜいが大納言どまりで、位階や官位でも相手を凌駕する… などという事例はありません。

そんな、専制君主化した院にすら意のままにならぬ、伝統に守られた官位・家格の強固な壁がいまだ存在していた状況。

その事を考慮すれば、清盛の、特に十代での位階の昇進ぶりの異常さは決して軽く考えられるものでは無く、私には白河院が彼を「落胤」と認識し、貴族社会もそれを暗黙の了解として受け入れていた証拠に思えてなりません。

 

また、もしこれが事実だとすれば、異母弟頼盛(忠盛の後妻・藤原宗子所生)が後々迄清盛に対抗とも言える微妙な姿勢を取り続けた事に対しても、「兄は院の落胤であり、我こそが伊勢平氏の真の嫡流」という意識があったのでは、という感じで理解がしやすくなるのですが… さて。