文和春秋

主に歴史や本についての徒然語り

ローマ帝国(通称ビザンツ)の滅亡を飾った男

「終わりよければ全てよし」の方の事例と言って、私が真っ先に思い浮かべるものと言えば… やはりなんといってもローマ帝国(通称ビザンツ)の滅亡になります。

文字通りの千年帝国の滅亡。とはいえ半世紀程前には一時オスマンの属国の様な状態にまで落ちぶれ、最末期の領土は帝都近辺以外はギリシャ飛地エーゲ海の島々くらいしか無かった「帝国」の滅亡が、それなりに歴史上の大事として語られるのは何故か。

無論当時の迫り来るオスマンの脅威や、由緒ある帝都・コンスタンティノープルが異教の手に落ちた衝撃、といった理由もあるでしょうが、やはり最後の皇帝の個性による部分も大ではないかと。

 

最後の皇帝・コンスタンティノス12世(11世の方が一般的ですが、あえてこちらで)。

兄の死を受け帝位を継ぎ、在位は足掛け5年。10万のオスマン軍に迫られても、帝都の明け渡しを断固拒否。正規軍・傭兵ひっくるめて1万余で二か月余り戦い抜いた後、最後は高らかな叫びと共に皇帝の装束を脱ぎ捨てて剣を抜き、乱軍の中に消えていった…

自ら最も防御力の弱い門で陣頭指揮を取り続けた後の、その壮絶な最期は、明らかにビザンツ帝国の最期に対するイメージにも大きな影響を与えているのではないでしょうか。

 

私の私淑する宮崎市定氏が「既に王朝の命数が尽きた段階で出た名君は、反ってその滅亡を早める」という主旨の事を述べておられましたが、確かに彼の行ったペロポネソス半島での領土拡大策や亡命王子を使ったオスマン牽制策、更には西側の支援を期待しての東西教会合同などは、結果としてそういった面もあるかと思います。

また、実際帝都をオスマンの要求に従って明け渡せば、もう暫くは残った領土で「帝国」の旗を上げ続ける事も出来たでしょうし、彼以外であったらその選択を選んだ可能性もそれ程低くなかった気もします。

ただその場合、その後に起きたであろう「帝国の滅亡」は、決して現在語られる程の大事では無かったであろうことも間違いないでしょう。

 

そういう意味でこの皇帝は、まさに千年帝国の最後を飾る為に即位した、それこそ偉大なる先祖の配剤の様にすら個人的には感じてしまったりしますが、さて…