文和春秋

主に歴史や本についての徒然語り

「則天武后」というまやかし

歴史上において、「女傑」と呼ばれる方は少なくないでしょうが、私がその言葉から真っ先にイメージする方と言えば、やはり則天大聖皇帝(通称:則天武后、武后、武則天など。正式名に適当な略称が無いので、止むえず以下武后)を置いて他にありません。

 

中華帝国が基本男尊女卑と言っても、女性の権力者は昔より少なからず。呂后や西大后の様に、実質皇帝並みの権力を振るった方とて、中には見受けられます。

されど… 自らの王朝を建てて帝位に就いた、という事になれば、後にも先にも武后のみです。

また、自らの手先となる酷吏だけでなく、狄仁傑のような諫言も厭わぬ名臣達をも好んで登用し国政を安定させた点なども、権勢欲だけでは無く政治家としての力量を見せた好事例と言えるでしょう。

 

無論武后には、権力の為には平気で我が子を犠牲にするといった非情さや、お気に入りの僧を侍らせ淫蕩に耽った、といった類の「悪行」も数多く伝えられています。

ただ正直これらが、「事実」にどれだけの「悪意の粉」が塗されているのか、といった疑問を感じるのも、多くの横紙破りを果たした武后への儒者達の感情を鑑みれば… また正直なところ。

 

なにせ唐を廃し、15年に渡り天下を統治した武后の周を唐に包摂してしまったり、紛れもなく即位している武后とその統治を「則天武后」「武后執政」といった、事実を含めど明らかにまやかしをまぶした表現で片づけたがる方達の語る姿なのですから…

ローマ帝国(通称ビザンツ)の滅亡を飾った男

「終わりよければ全てよし」の方の事例と言って、私が真っ先に思い浮かべるものと言えば… やはりなんといってもローマ帝国(通称ビザンツ)の滅亡になります。

文字通りの千年帝国の滅亡。とはいえ半世紀程前には一時オスマンの属国の様な状態にまで落ちぶれ、最末期の領土は帝都近辺以外はギリシャ飛地エーゲ海の島々くらいしか無かった「帝国」の滅亡が、それなりに歴史上の大事として語られるのは何故か。

無論当時の迫り来るオスマンの脅威や、由緒ある帝都・コンスタンティノープルが異教の手に落ちた衝撃、といった理由もあるでしょうが、やはり最後の皇帝の個性による部分も大ではないかと。

 

最後の皇帝・コンスタンティノス12世(11世の方が一般的ですが、あえてこちらで)。

兄の死を受け帝位を継ぎ、在位は足掛け5年。10万のオスマン軍に迫られても、帝都の明け渡しを断固拒否。正規軍・傭兵ひっくるめて1万余で二か月余り戦い抜いた後、最後は高らかな叫びと共に皇帝の装束を脱ぎ捨てて剣を抜き、乱軍の中に消えていった…

自ら最も防御力の弱い門で陣頭指揮を取り続けた後の、その壮絶な最期は、明らかにビザンツ帝国の最期に対するイメージにも大きな影響を与えているのではないでしょうか。

 

私の私淑する宮崎市定氏が「既に王朝の命数が尽きた段階で出た名君は、反ってその滅亡を早める」という主旨の事を述べておられましたが、確かに彼の行ったペロポネソス半島での領土拡大策や亡命王子を使ったオスマン牽制策、更には西側の支援を期待しての東西教会合同などは、結果としてそういった面もあるかと思います。

また、実際帝都をオスマンの要求に従って明け渡せば、もう暫くは残った領土で「帝国」の旗を上げ続ける事も出来たでしょうし、彼以外であったらその選択を選んだ可能性もそれ程低くなかった気もします。

ただその場合、その後に起きたであろう「帝国の滅亡」は、決して現在語られる程の大事では無かったであろうことも間違いないでしょう。

 

そういう意味でこの皇帝は、まさに千年帝国の最後を飾る為に即位した、それこそ偉大なる先祖の配剤の様にすら個人的には感じてしまったりしますが、さて…

終わり悪ければすべて悪し… 六角氏の場合

「終わり良ければ全て良し」という言葉がありますが、歴史を見ていると、この言葉をしみじみと思い浮かべる事は少なくありません。 …まあ言葉通りの意味より、逆説的な意味で実感することの方が多い気もしますが。

そして戦国時代においても、今川義元後北条氏など、後者の意味で割を食っていると感じる事例は少なからず浮かびますが、そのうちの一つに六角氏の事例があります。

 

六角氏というと、信長上洛の際に鎧袖一触という感じであっさりと敗れたイメージが強いためか、あるいは北近江の浅井氏の方が信長の妹や秀吉らとの絡みもあり名高いためか、ともすれば弱小勢力だった様な印象を持つ方も少なからずおられるかと思います(あるいは「信長の野望」の様なゲームの影響かも知れませんが)。

されど、それはその5年前に起きた「観音寺騒動」という内紛により半ば内部崩壊してしまっていたが為であり… その一挙だけで、六角氏が鎌倉幕府創成期より近江に勢力を張っていた近江源氏・佐々木氏の嫡流である事や、戦国前期に管領代・六角定頼と子の義賢が近江とその周辺のみならず、一時期畿内の政局にも影響を与えるスーパーパワーの一角だったことなども、まるで忘れ去られているかの様なのは… ありがちとはいえ、悲しい事です。

 

もっともその栄光も、佐々木道誉の活躍により有力守護の一角となった分家の京極家に室町幕府創生期より後塵を拝した後の、束の間の全盛であったのも… まあ間違いはないのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

源三位の末裔たち

治承4年、源三位は先述のように自害し、一族郎党も壊滅しました。

幸い、この時都に不在だったと思われる頼兼と、知行国の伊豆にいた広綱という二人の子は生き残ったのですが、頼兼はその子頼茂の代に政争絡みによってか滅ぼされ、広綱は頼朝の挙兵に加わり駿河守にまでなるも、後に謎の逐電・遁世を遂げてしまい… かくして源三位の直系は歴史の表舞台から消えました。

しかしながら「源三位の末裔」を称する者たちが後の世にも少なからず見受けられ… 江戸時代にも大河内・池田・太田など数家の大名家を出すに至っています。

 

本願寺の坊官・下間氏。

徳川の譜代・大河内氏。

太田道灌の活躍で名高い太田氏。

武田信玄の名臣・馬場信房が高名な馬場氏、等々。

これらのうち、広綱子孫の太田氏はともかく、他は「徳川が新田の子孫」級の信憑性のようですが、裏を返せばそれだけ「源三位」というのは先祖として誇るに足る存在だった、とも言えるのではないかと思います。

…まあ表面の行動を好意的に見れば、「平家の専横と不忠に怒り、老いの身をも顧みず決起。自らと一族郎党の血で新時代への道標を築いた」という、まさに「英雄的行動」以外の何物でもありませんので。

 

「埋木の花さく事もなかりしに 身のなる果ぞかなしかりける」

平家物語」の記す辞世の句が果たして本物かは存じませんが、如何にもらしい、実に印象深い辞世であると思います。

後代には見事花を咲かした、という事で、以って瞑すべしと思って頂きたい所なのですが、さて。

「英雄未満」源三位②

治承4年(1180年)の源三位頼政の挙兵。

それ自体は短期間で鎮圧されて自身も自害に追い込まれるも、結果的には連鎖的に各地で反平家の挙兵を誘発し、治承・寿永の大乱の先駆け、「全盛平家の滅亡」という事態にまで発展するという、まさに歴史を動かした一挙と言えます。

しかし、『平家物語』の「源氏揃」の章で、平家の専横に怒り、各地の源氏の名前をずらりと挙げて以仁王に決起を促す彼の姿が実像かと言えば… やはりそうでも無い様で(但しとうの「平家」ですら、後の章で嫡男・仲綱が清盛の息子・宗盛に恥辱を受けたが為の復仇、という裏の理由が語られたりもするのですが)。

 

この辺り、元木泰雄氏らも検証しておりますが、どうも彼が経済的に深く結びついていた八条院の猶子であった以仁王に巻き込まれた、と言った方がより実際に近い様です。

何となく、喜寿になったにも関わらず、義理と生活の為に無謀で至難な戦いに引きずり込まれたという、彼の内心のぼやきでも聞こえてきそうなお話です。

 

ただ、いかに意にそまぬ仕事でもやるとなれば手は抜かず、ぼやきながら見事にこなすのも、また源三位。

以仁王の決起計画が漏れた際、その討伐軍に息子の仲綱が指名されるぐらい挙兵準備の秘匿に成功していた手腕といい、いざ戦いとなれば一族郎党壊滅するまで激しく戦って見せた剛毅さといい、やはり只者ではありません。

…もっとも、そこまで苛烈に戦ってまで落ち延びようとさせた以仁王が、逃げきれずあっさり殺されてしまった、というオチがつく辺りも、やはり源三位ぶりなのかも知れませんが。

 

まあ何はともあれ確かな事は… 私がそんな半熟英雄とも言いたくなる源三位に実に心惹かれる、という事でしょうかね。

「英雄未満」源三位①

源頼政、通称源三位。

歴史上では以仁王を擁していち早く平家打倒に立ち上がった老将として、説話の世界でも天皇を悩ます鵺を退治した武人として、それなりに名の通ったお方です。

ただ、行動それ自体は「英雄的」とも言えるのに、裏の方ではなんとも言えない凡人臭さを漂わせている、個人的にはそんな印象が拭えない方でもあります。

 

そしてその印象を決定づけたものはと言えば… もうかなり昔でどの本だったかもはっきり思い出せないのですが、鵺退治前の頼政の描写になります。

そこでは親交ある貴族の推挙によって「帝を悩ませる鵺を退治すべし」との命を受け、弓矢を前に「帝の御前でもし鵺を狙ったこの一矢を外したら、面目の上からその場で自害するしかあるまい」と悲壮な決意を固める場面だったのですが、そこでおもむろに2本の矢を用意するのがポイント。

1本は当然鵺を射貫く為のものですが、さてもう1本は何の為に用意したかと言えば… 矢を外して面目を失い自害する際は、自分をこんな立場に追い込んだ推薦者の貴族を射殺してやろう、というもう一つの決意の為という…

無論説話は説話に過ぎないと言えばそうなのですが、それでも私に「英雄になり切れない凡人らしさこそが源三位」という決定的な印象を与えたという意味でも、忘れがたいエピソードではあります。

 

なお、この「源三位ぶり」は説話世界だけでなく、歴史の方たる「平家打倒の為の決起」でも如何なく発揮されることになるのですが… それは次回にでも。

「室町幕府衰亡の立役者」としての義教

室町幕府衰亡の原因というと、8代将軍・義政の無気力や無為無策応仁の乱を招き云々、といった話になる事が少なくないと思います。

しかし問題の大元を辿っていくと、むしろその父親の6代・義教の数々の行動こそが遠因であり、義政はその負の遺産を受け継いだ、という面も小さくない様に思います。

 

そもそも義教の「功績」とされる将軍権力強化からして、裏を返せばこれまでの幕府を支えてきた有力大名の合議制というシステムを破壊した上での物ですし、その過程で行った多くの大名に対する粛清や家督への干渉(ある学者の言によれば、その魔の手を逃れた有力大名は細川・赤松のみとか)と、その横死後の管領畠山持国(自身も被害者の一人)のリセットによる混乱を考えれば、功罪も如何なものかと。

 

また鎌倉府討滅にしたところで、反抗的な鎌倉公方・持氏に鉄槌を加えるまでは、ある意味歴代将軍の残した「宿題」を片づけたものとして評価できるにしても、関東管領・上杉憲実の嘆願を無視してまで強行したその抹殺には、感情面での行動では無く、その後の展望を考えてのものだ、と言えたものやら。

管見の限りでは当座は憲実にぶん投げ、将来的には自分の息子でも新たな公方に据えればよかろう、といった大雑把な「構想」程度しか無かったようにしか思えぬのですが。

 

どうも義教に関しては時折「中央集権体制を目指した先駆者」といった感じでやたらに高く評価する向きを、特に学者以外の方から見ることがある気がします。

個人的にはさしたる長期的展望も感じられぬ上、そもそも根本的に自分の感情を抑制出来ずに行動し、順当な帰結として横死した方として、どうにも良い点は付けられぬのですが…